LOGIN慈寧宮からの報せを聞いた時、私は台車の縁を握った。『鈴花の母を売った本当の相手を教えてやる』 太后様は、そう言ったらしい。 その言葉は、私の喉の奥へ冷たい針のように刺さった。 母を売った相手。 母が私を売った相手ではなく、母を売った相手。 それが言葉遊びなのか、本当に別の意味があるのか。 太后様なら、どちらもあり得る。 あの人は、最後まで母の顔を捨てきれない。 いや、捨てたくないのだろう。 自分が母であることを盾にする。 誰かの母であることを餌にする。 今度は、私の母を使って私を動かそうとしている。「行きません」 私は言った。 廊下にいた全員が、こちらを見る。 老医官様だけが深く頷いた。「よろしい」 蘭々は驚いていた。「え、行かないの?」「行きません」「鈴花が?」「はい」「本当に?」「何回確認するの」「だって、鈴花なら『行きます』って言って、老医官様が怒って、黎星様が怒って、私が台車押す流れかと」「私を何だと思っているの」「鈴花」「そのままですね」 否定できないのが腹立たしい。 景黎様は、少し眉を寄せた。「罠だと分かっているからか」「はい」「だが、太后様が本当に何かを知っている可能性もある」「あります」「なら」「その前に、母に聞きます」 自分で口にして、胸の奥が少し痛んだ。
玉蘭妃様の部屋へ向かう廊下は、朝なのに夜の匂いがした。 薬。 汗。 血を拭いた布。 焦げた皇后宮から流れてきた煙。 それから、甘い香。 玉蘭妃様の部屋には、まだ花の香が焚かれている。 毒を吐き、髪を乱し、罪人として見張られているのに、部屋だけは寵妃の部屋のままだった。 人間は、最後まで何かを飾る。 母の顔。 聖女の顔。 忠臣の顔。 毒妃の顔。 そして、美しい寵妃の顔。 私は台車の上で、皇帝陛下の背中を見ていた。 陛下は歩くのが遅かった。 逃げているわけではない。 けれど、一歩ごとに何かを踏んでいるように見えた。 母を疑わなかった日。 皇后様の帳面を開かなかった夜。 玉蘭妃様の涙を信じた記憶。 その全部を踏みながら進んでいる。 景黎様は隣にいる。 肩の傷を庇っているくせに、顔には出さない。 出ているけれど、本人だけが出ていないと思っている。「景黎様」「何だ」「痛いですか」「痛くない」「嘘ですね」「少しだ」「少しではないと思います」「今は兄上の方を見ていろ」「見ています」「なら俺を見るな」「目は二つあります」 景黎様は、何か言い返そうとして諦めた。 蘭々が後ろで小さく笑う。「黎星様、負けた」「勝負ではない」「でも負けた顔」
皇后様の帳面には、皇帝陛下の名があった。『景耀』 赤い印。 三本の線。 赤は、自ら利益を得て、人を害した者。 三本線は、外朝より永久に退ける者。 皇后様が毒で殺された事件を調べていたはずなのに、その被害者である皇后様は、夫である皇帝陛下まで裁きの鎖へつないでいた。 誰も、すぐには口を開かなかった。 燃えた皇后宮からは、まだ黒い煙が上がっている。 景蘭様は毒を抜くため医療房へ運ばれた。 沈烈も梁徳も拘束された。 夜は明けた。 けれど、帳面の中だけは、まだ夜より暗かった。「……同じ名の者ではないのか」 最初に口を開いたのは、皇帝陛下だった。 声は落ち着いている。 落ち着かせようとしている、と言った方が正しい。「景耀という名の官吏が、どこかに」 白瑛は帳面を見たまま答えない。 答えられないのではない。 皇帝陛下が、ご自分で分かっているからだ。 この帳面に、官吏の諱だけが書かれることはない。 官位。 所属。 関係した事件。 必ず何かが添えられている。 その名の下にも、小さな文字があった。『皇帝』 見間違いではない。「陛下です」 私は言った。 皇帝陛下の目が、ゆっくり私へ向く。「断じるのが早いな、鈴花」「字がございます」「字が偽られている可能性は」「帳面自体は白瑛が本物と確認しました」「一部だ
赤い蓮が、次々に燃え上がった。 火は花弁の形など守らない。 油を吸った赤布を舐め、枯れた茎へ移り、割れた石灯籠の隙間から噴き上がる。 さっきまで美しく並んでいた灯籠は、もうただの火種だった。「西の排水路へ!」 蓮貴妃様の声が飛ぶ。 蘭々が台車の取っ手を掴み、勢いよく押した。「行くよ、鈴花!」「待って、帳面!」「白瑛さんが持ってる!」 白瑛は皇后様の帳面を胸へ抱き、濡らした外衣で包んでいた。 景黎様は景蘭様の腕を掴んでいる。 景蘭様は抵抗こそしていなかったが、炎の向こうを振り返っていた。 まだ、燃える廃庭を見ている。 自分が死ぬはずだった場所を。「景蘭、歩け!」「帳面は無事か」「お前より無事だ!」「それは何より」「今それを言うか!」 景黎様の声が怒鳴り声になった。 景蘭様は、いつものように笑おうとした。 けれど、うまく笑えていない。 毒のせいか。 火の熱か。 右手だけでなく、足も震えていた。「景黎様、景蘭様を背負ってください!」 私が叫ぶと、景黎様がこちらを見る。「こいつを?」「歩けていません!」「歩けるよ」 景蘭様が言った直後、膝が崩れた。 景黎様が腕を引かなければ、そのまま燃えた蓮灯籠へ倒れていただろう。 蘭々が、台車を押しながら叫ぶ。「それ、歩ける人の倒れ方じゃないです!」「洗衣局の女に言われると、妙に傷つくな」
景蘭様の招待は、夜だった。 皇后宮の廃庭。 そこに、皇后様が外朝を裁くために残した最後の帳面がある。 罠だと分かっている。 景蘭様自身が、罠だと隠そうともしていない。 それでも、行かなければならなかった。 皇后様が何をしようとしていたのか。 梁氏を止めるだけだったのか。 それとも、梁氏に関わった者をまとめて斬り捨てようとしていたのか。 私を使った人が、他にどれだけの人を使うつもりだったのか。 見なければ、皇后様を美しい犠牲者のまま残すことになる。 けれど、景蘭様の言葉だけを信じれば、今度は皇后様を冷酷な策士として決めつけることになる。 どちらも嫌だった。 だから、自分の目で見る。 皇后様に選ばれた目としてではない。 明霞姉様の代わりでもない。 私が、見たいと決めたから。 ◇ 廃庭へ向かう前に、私は医療房へ戻った。 小梅は眠っていた。 灯は、小さな籠の中で布に包まれている。 あまりにも小さい。 息をするたび、胸がわずかに上下する。 生きている。 それだけで、胸が詰まった。 阿梨は寝台へ戻されていた。 腹帯は、春燕の記録ごと証拠箱へ入れられている。 梁徳は拘束された。 朱燕と月琴も別室にいる。 それでも阿梨は、自分の腹を両腕で抱いていた。 誰かがまた奪いに来るのではないか。 そんな顔だった。「行くの?」 阿梨が私を見る。「はい」「景
「その子の父を知りたいなら、私に聞けばいい」 景蘭様は、阿梨の寝所の外に立っていた。 黒い衣。 その下から覗く紫金の袖。 右足をわずかに引いた姿勢。 笑っている。 けれど、いつものように余裕だけで作られた笑みではなかった。 右手が、かすかに震えている。 月琴の言葉と一致する。 紫金の衣。 薬の匂い。 震える右手。 阿梨の腹帯に残された記録が示す特徴は、景蘭様にも当てはまっていた。 景黎様が、私たちと景蘭様の間へ入る。 剣は抜かなかった。 けれど、柄へ置いた手には力が入っている。「一歩でも近づけば斬る」「怖いな」 景蘭様は笑った。「久しぶりに会った身内へ、最初に言う言葉がそれかい?」「お前と身内話をする気はない」「では、子供の話をしよう」 景蘭様の目が、阿梨の腹へ向いた。 阿梨は反射的に腹を両腕で覆った。 その顔から血の気が引いている。 けれど、景蘭様から目を逸らさなかった。「あなたが……父親なの?」 阿梨の声は震えていた。 部屋にいる誰も、代わりに答えなかった。 これは阿梨の問いだ。 本人が聞くべき問い。 景蘭様は、少しだけ首を傾けた。「私が父親だったら、どうする?」「質問に答えて」「産む?」「答えて!」 阿梨の叫びが、荒らされた寝所に響いた。 景蘭様の笑みが薄